“根拠のない自信を持って、未来への不安は捨てるべき”
人によっては無責任な発言に聞こえますが、私は妙に納得してしまいました。なぜなら認知された問題と不安は似て非なるものだからです。少し飛躍してしまったため、詳しくは後述します。
なにはともあれ、私の生活環境はここ数ヶ月で著しく変化しており、この先2ヶ月間も同じような日々が続くでしょう。これまでのところ私にストレスを与えるような出来事は何度かありましたが、1ヶ月前に悩んでいたことはすでに解決している場合がほとんどです。
この記事は私の考えたことを整理するための文章であるため、記事としてまとまりがありませんし、展開も不自然なはずです。しかし私と同じような境遇の人々に向けて少しでも助けになれば良いと思って公開しています。
未来への不安を捨てる
サブタイトルを聞いて理解するのは簡単ですし、やろうとするのも簡単でしょう。しかしそれを続けるのは困難なことです。スクワットを一日10回やるのとはわけが違います。不安に苦しむ人々はあなたが思っているよりも多いです。私もそのうちの一人ですし、誰かがいつも自信を持っているように見えても、実は不安を抱えているかもしれません。
人類は高度な知力を得た代わりに、起こり得る最悪の事態を予想して不安に襲われるようになってしまいました。生物のひとつとして死亡や怪我のリスクを減らすことは種の存続に貢献するはずですが、知力の方向性を誤ると自らの心によって病に犯されます。
未来への不安は人類が高度な文明社会を築くにつれて肥大化し、複雑なものになっています。第一世界に住む人々にとって飢餓に苦しんだ経験は曖昧なものです。生きていくだけの食べ物は誰でも安く手に入りますし、苦労して農業や狩猟をしなくてもグローサリーストアに行けば簡単に見つかります。
それにも関わらず、第一世界に住む人々は不安に苦しんでいます。なぜなら人間関係や医療は現代でも完全ではありませんし、家や車はどの国でも簡単に払える価値ではないからです。ところが300年後の人類からすれば、今の私たちの生活は単純だと思うでしょう。人類の生活はどうやっても複雑になる一方です。
だからこそ不安になるのは無駄なのかもしれません。もちろん人生にある問題を認知し、早めに対処しておくことは重要です。しかしいくつかの問題が常に人生にあるからといって、それらを完璧に取り除くまで不安になり続ける必要はありません。私たちは生きていると問題が解決したと思ったらまた次の問題が湧いてくるように見えます。それは普通のことだと思うしかありません。
問題を認識しつつも、完全な解決には時間がかかります。それまでの間は不安を感じたり焦ることなく、人生を楽しもうとするべきです。わかったようなふりをしていますが、私も2ヶ月前は不安を感じて焦っていて、強引に物事を変化させようとしていました。結果的にほとんどは上手くいきましたが、一部の人々に迷惑がかかりましたし、決して賢い方法ではありませんでした。もう一度言いますが、問題がある状況に焦りを感じては駄目です。
根拠のない自信
これは私とってよく理解できない部分です。自信を持つことは私の人生を楽しくさせると確信していますが、根拠のない自信を持つことは破滅を呼ぶのではないでしょうか。よく学校の教師が “自信とは努力の証明だ” と言いますが、根拠のない自信は努力のない自信になり、とても自虐的に聞こえます。
しかし仮に努力と自信に因果関係がないとするなら、根拠のない自信はそれほど空虚なものではないかもしれません。そもそも努力しなければ自信を持つなと誰が決めたのでしょうか?私自身、潜在的に意識していましたし、努力という言葉は抽象的で人によって基準が大きく異なります。また、プライズのような権威を基準に考えるのも野暮でしょう。世界には権威を与えられずにいるが、素晴らしい考えや技能を持つ人々がたくさんいます。彼らはもちろん自信をもつ権利がありますし、そうでない人々も同様です。
私の尊敬する人はこのような意味を込めて根拠のない自信を持つべきだと言ったのかもしれません。不安に襲われがちな人々は自信を十分に持っていないことが多い。だから根拠がなくても仮の自信を持ち続けたら不安に悩まないようになるし、本当の自信や根拠が存在する自信に変わります。
自信に相応しい根拠が揃うまで待っていたら棺桶に放り込まれる気がします。だからこそ根拠は無くても自信を持って、人生の中で不安が支配する時間を少しでも短くすることが幸せに過ごす方法の一つなのだと思います。